傘の中、降るのは

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  大使館の入り口でぼくら三人を迎えたのは、去年の大福によく似た少年だった。

 もはや糸にしか見えない細い目でこちらを見上げ、赤子のフィガロよりふくふくとした手を上げ、

「よう、親友」

と、ごく短い挨拶を投げてよこした大福に、バンコランは

「誰が親友だ。やたらとロンドンの地を踏むなと言っただろう。大気汚染が進む」

と、冷ややかに返した。

「何を言うんだ。わざわざ燃料費をかけて、一国の王であるこのぼくが来てやったんだぞ。イギリス国民は本来総出で歓待するべきだぞ」

「寝言は寝て言え、つぶれアンマン」

「まあそうつれなくするものじゃない、親友。ちょうどお前の家へ行くところだったんだ」

「だから誰が親友だ。おおかた、また下らない面倒事を持ち込みに来たんだろう。お前の与太話を聞いているヒマはない。私は忙しいんだ」

 浮気をするのにね。

 思わずそうつぶやきかけて、はっと我に返る。

 こんな持って回った怒り方、ぼくらしくない。こんなのは嫌だ。

悪いお酒でも飲んだみたいに、お腹の底の方にどろりとした蟠りが溜まっている。いっそ全部吐きだしてすっきりしたいのに、どうやって自分の外に出したらいいのか分からない。

「仕事中には見えんぞ」

「今日は特別に早く帰れたんだ」

「それで、夜のオモチャとデートという訳か。よう、元気かマントヒヒ。」

「マライヒだよ」

 相変わらずひどい言われようだと思った途端、クスリと笑いがこみ上げてくる。底抜けな脳天気さとくだらなさが、沈みきっていたぼくの気分を少し引き上げてくれたらしい。珍しいことだけれど、パタリロに感謝したくなる。

「下らないことばっかり言ってないで、中へ入れて。フィガロを預けて出かけなくちゃ。お店の予約に遅れちゃう」

「そうだ、お前と漫才をやっている時間はない。そこをどけ」

「焦るな。まずはぼくの話を聞け」

「うるさい大福だな、全く。粗大ゴミは粗大ゴミらしく、ゴミ収集車でも待っていろ」

 そういうと、バンコランはパタリロを扉前から車道へ蹴り飛ばし、飴色のドアを開いた。

 

「ああ少佐、遅かったですね。お待ちしていましたよ」

 何号かはとうに忘れてしまったロンドン駐留のタマネギが、僕らを迎え微笑む。すっかりベビーシッターが板についているタマネギは、バンコランの抱いていたフィガロを受け取り、明日の朝まででよろしかったですか?、と部隊揃いの奇妙なスタイルの頭を傾げた。

 今の心理状態で、自分がフィガロを明朝まで預けてバンコランとデートをするとは思えなかったけれどそれを言い出す勢いもない。自分の気持ちがどうにも定まっていないのだ。それにここなら、不意にぼくがフィガロを迎えに来ても大丈夫だと分かっているし、とりあえず預けてバンコランとふたりきりになる必要は感じる。さすがにこのまま黙って浮気旅行に送り出すことは、出来ない。

「うん、ぼくが迎えに来るまで、お願いできる?」

 と、問いつつ、タマネギ頭に抱かれたフィガロの頭を良い子にしているんだよと撫でる。

「もちろんです、お任せ下さい」

 坊やはとてもお利口にしてますし、なにより殿下の御親友の少佐とマライヒさんの頼みですから。いつでもおっしゃって下さい。如才ない受け答え。こんなとんまななりをしていても、中身はマリネラ選りすぐりの軍人だ。バンコランの職業上、いつテロや誘拐の対象になるか分からないフィガロは、安易にベビーシッターを頼めない。バンコランや英国情報部を狙う何者かがこの子をさらって利用しようとした時、それを防げる心得のある人の元でなければ。その点、一国の大使館という立ち入りにくさと、詰めているのは優秀な軍人という点で、ここは十分に条件を満たしている。

 とはいえ、安易に保育所代わりにしていることが申し訳なくもあって、

「いつもごめんね」

と告げると、

「いいえ、そんな。マライヒさんにも殿下は何かとお世話になっていますし。どうぞ気兼ねなさらず、お二人の時間を楽しんでいらしてください」

と、タマネギ頭が答える。ああ、パタリロは彼らにとって、なんだかんだ言っていい主なのだなと思う。

「そうとも、ぼくとお前の仲じゃないか。なあ、親友」

 ありがとう、と返そうとしたぼくに割って入った声の方向を見遣ると、バンコランに蹴り出され、車2,3台に轢かれたはずのパタリロが頭にぐるぐると包帯を巻いた以外は全く元気な姿で、ふにゃりとした笑みを浮かべて立っている。一体あの子の体はどうなっているんだろう。

「誰か親友だ、誰が」

 今日四回目の親友≠ニいう言葉に苛立ったバンコランが憎々しげに言いながら、葉巻を咥えて火を付けた。

「店の予約は何時からだ」

 めげる、ということを知らないパタリロは、バンコランの嫌そうな声音や眼光もどこ吹く風だ。この子のペースに巻き込まれると、時間なんてあっという間に経ってしまう。

「六時だよ」

予約時間まであと三十分ほどしかない。そう遠くない店だし、歩いて行くつもりだったから、直にここを出なければ。話を早く終わらせようと、ぼくは簡潔に答えた。

「それなら時間はある。ぼくの話を聞いていけ。悪い話じゃないんだ。店までは、流星号に送らせよう」

お前には逆にいい話だ、とぼくを見上げて意味ありげに笑い、パタリロはついてこいとばかりに先を歩き出した。無視して大使館を出ることも出来たけれど、パタリロの意図が気になったのと、バンコランといざふたりきりになって、どう振る舞えばいいのか、どう振る舞ってしまうのか予測がつかないこともあり、ぼくはパタリロに従って歩みを進めた。バンコランは、仕方がないなとでも言いたげに、大きく一つため息をついてぼくの横に並ぶ。

「まったく、ヒマな奴だな」

「あなたは?」

 いけない。口が滑った。

「何?」

「あなたは、忙しいの?」

もう、やめた方が良い。それなのに、言葉が止まらない。

 こんなことで、こんな切り口でケンカを始めて何になる。フィガロにだって声が聞こえてしまうだろう。理性はそう伝えて来るけれど、口に出してしまった言葉は戻らない。

 こうして、理性が働く事も、口が滑ってしまうことも、やっぱりいつものぼくじゃない。今日は、ぼく自身のどこかのボタンをかけ違えてしまっているようだ。

「明日からイタリアへ出張だと言わなかったか?」

 バンコランまでいつもと違う。彼らしくないミス。

「・・・フランスでしょ?」

 そして、聞き流せないぼく。何もかもが、ちぐはぐだ。バンコランが、しまったという顔をする。いっそポーカーフェイスで、そうだったか?、としれっと言ってくれればいいのに。

 いや、むしろ今がチャンスだ。こんな陰湿なやりとりじゃなく、いつものように怒りを爆発させろ。大きな声で「バンコラン!!」と怒鳴って、彼を問い詰めて、殴って、引っ掻いて、ここから飛び出せ。二時間もすれば、バンコランがぼくを迎えに来る。それまで、バットの店にでもこもって、お酒でも飲んで、バット相手に今日の話をすればいい。それで、丸く収まる。彼もそれを、うっすら予感しているはずだ。

 自分でそこまで考えて、あまりのバカさ加減に笑えてきた。

 一体、何だっていうんだ。

 彼もぼくも、一体何がしたいんだ。

 どうしてぼくらは一緒に居るんだろう。

 何度も何度も、浮気と喧嘩と仲直りの三文芝居を繰り返して。

「ここだ、入れ」

 沈黙を破った声に顔を上げると、一枚の扉の前に立っていた。勝手知ったる大使館の中でも随分奥の部屋なのか、見慣れない作りの扉だった。考え込んで黙りこくったぼくと、怪訝な顔でそれを見ていたバンコランは、それでもパタリロについて歩き続けていたらしい。

 手入れはしっかりとされているのだろう、音を立てず滑らかに開いた扉の中は、こぢんまりとしているけれど、決して質素ではないソファーとテーブルが中央に据えられた部屋だった。飾り棚や絵画、置物等の調度から察するに、それなりの相手を通す応接間のようだ。今日は珍しいことが続く。このケチなパタリロが、ぼくらを応接間に通すだなんて。

「話というのは何だ」

 聞くだけは聞いてやるからさっさと話せ、と勧められもしないソファーに乱暴に座り、早速新しい葉巻に火を付けながらバンコランが問う。ぼくの態度がいつもと違う、浮気がばれたのかもしれないと思っているのだろうか。少しいらついて見える。

 お前もまあ座れ、とパタリロに促され、バンコランの横に座る。でも、いつものように彼にぴたりと寄り添っては座れない。すねた子供のような態度だと自分でも思うけれど、どうにもならない。きっと暴走しているのだ。置いてけぼりにしてきた、ぼくの中の子供の部分が。

「実は、亡き父上の秘蔵コレクションが出てきてな」

「秘蔵?」

 いかにも面倒くさそうにバンコランが問う。

「ああ。そう高価なものではないが、まつわるエピソードや謂われが気に入った宝石を、個人的に集めておられたらしい」

「随分とロマンチックな話だな。お前の父親とは思えん」

「何を言う。ぼくのロマンチストな所は父上譲りだ」

「お前のどこがロマンチストだ、小銭の亡者め」

 さほど興味のなさそうな、嫌味を含んだバンコランの相づちも、パタリロには効かない。

「そのコレクションの中に、なかなか良いルビーのセットがあってな。趣味も石もいいが、大きさがないのでそう高くもない。MI6の薄給でも十分買える」

 セールスマンよろしく、立て板に水で売り込みながら、いつものマリネラ宝石店の水色の箱とは違う、黒地に金箔押しの箱を取り出した。白いふくふくとした手が箱のふたを開けると、中には小さいけれど深い深い赤い石が三つ。ピアスが一揃いとネックレス。揃いのデザインは、シンプルだけれど個性と品がある。女性向けにしては素っ気ないかもしれない、硬質なイメージのそれは、バンコランの形の良い耳に良く映えるだろう。もやもやと、混乱し捻れていたぼくの思考が、石のきりりとした冷たさに吸い取られていくような気がした。

 箱の中に視線を注ぐぼくに、しめたとばかりにやりとした笑みを浮かべて、パタリロは言い募る。

「美しいだろう? このルビーは元は一つの石で、不思議なとに加工前に自然と三つに割れてしまったそうだ。それを運命的に感じた日本人のデザイナーが、カットとデザインを施したもので、猩々緋という名もある」

「しょうじょうひ?」

 聞き慣れない言葉に、思わず問い返した。

「日本語で、鮮やかな濃い赤色の名だ。まさに、そのルビーの色だな。そこから転じて、日本の武士が戦場に着ていく赤い羽織物の名でもあったそうだ。物騒なお前たちにぴったりだろう」

「物騒って、失礼だなあ」

「お前たち二人はぼくの知る中で一番物騒な二人組だぞ」

 ぼくとパタリロのやりとりを、バンコランは葉巻を咥えてじっと見ている。ぼくの様子を、伺っているんだろう。

「名前も似合いだし、ピアスとネックレス、それぞれ二人で身につけられる。まさにおあつらえ向きだろう?親友価格で安くしておくぞ」

 と、パタリロはどこから出してきたのか随分大きな電卓をはじいてバンコランに差し出した。法外、というほどではないけれど、気軽に買える値段でもない。バンコランは眉間に軽い皺を寄せて電卓を見て、新しい葉巻に火を付けた。様子のおかしいぼくが、宝石に興味を持っているように見えて、無碍に断れないでいるのだろう。

「高いよ」

 いつまでもここで電卓をにらんでもいられないので、正直に言って電卓をパタリロの方へ押し戻した。

 確かに綺麗なセットだけれど、今はとうていおねだりをする気になれない。まだバンコランの浮気疑惑は解決どころか、ぼくらの前に露呈されてもいない。

「時間だ、送っていけ」

 ぼくの言葉で、この話は終わりと決めたのだろう。

バンコランが葉巻を消して立ち上がった。

 

 
 
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